この仕事に付くなら定時という言葉は忘れなさい。
社会人5ヶ月目になる高橋綾瀬は今になって先輩に言われたことを痛感していた。
なぜなら今の時間は朝5時。町中を歩いている人もろくにいない。
どう考えても会社に行く時間ではなかった。
「おはようございます」
綾瀬は老朽化が進む小さな出版社ビルの正面扉をくぐり、警備室へ向かって軽く挨拶をする。
「あれ、高橋さん。今日は早いね。どうしたの」
警備室の扉が開き、一人の男が驚いた顔で言う。
「今日は編集長に呼ばれまして」
「ふーん。珍しいこともあるね。何か大きな事件でもあったの?」
「さぁ、私にもさっぱり」
呼ばれた理由は綾瀬にも見当がつかなかった。
まだまだ駆け出しの新人の自分に速報性がある大事件の取材なんてあるはずがない。
ましてや、こんな早くに呼ばれる理由がわからなかった。
ただの用事ではないと思った綾瀬は足早に編集部へと急いだ。
5分後。編集部
「はい?」
綾瀬は立ち尽くしながら、気が抜けた返事をした。
どこから見てもオッサンといえる編集長が呆れ顔をしタバコの煙を吐く。
まだ人が殆どいない静まり返った編集部にタバコの煙が立ち込める。
「だからお前、刑務所に入れや」
徹夜明けなのか不機嫌そうな編集長が綾瀬に向かって今一度同じことを言った。
「はい?」
綾瀬もまた同じ反応をする。
朝一番で編集長に呼び出され、何かと思えば刑務所に入れという。
いくら繰り返し言われても意味がわからない。
そんな刑務所に入れられるようなことをした覚えもなかったからだ。
「ええい、クソ。言葉が通じないか。それじゃ新人のお前にもわかりやすく一つ一つ言うぞ。お前、境特別拘置所は知っているな。去年脱獄事件があったところだ」
編集長はめんどくさそうな顔をしながら説教臭い口調で説明を始める。
「もちろん知っています」
綾瀬が編集長の言葉に頷く。
社会問題にまでなった集団脱獄事件。拘置所の管理体制とセキュリティの甘さが散々指摘された事件だ。
下ネタ中心のB級週刊誌所属とはいえ、彼女が知らないはずはなかった。
「そんで今度そこの特集を組むことになった。お前は事件後に新しく施行された薬物容疑者管理法の現状や拘置所の管理体制を取材し記事にしろ」
編集長はようやく本題らしきものを語る。
「はぁ」
綾瀬は何か腑に落ちなさそうな返事をする。
実際に彼女にはわからなかった。
なぜそんな大きそうなネタを新人の自分に振るのかを。
事実、この編集部に配属になってからの仕事は芸能人の追跡レポートや、盗撮まがりのゴシップ記事ばかりだった。
学校を出たなりの新人に与えられる仕事なんてこんなもんと諦めていただけに、今回の話は不思議に思えた。
「細かいことはカメラマンの鈴木に聞いてくれ。今回の企画は鈴木の案だから彼が全てやってくれるはずだ」
「え?これは鈴木さんの企画ですか」
綾瀬は軽く眉をひそめる。
鈴木はカメラマンと企画をこなす中堅ライターだが、部署での評判はあまりよくなかった。
売れる記事を作るためにはなんでもやり、それが明らかにやりすぎな面があったからだ。
事実、彼が手がけたレイプ現場のスクープ記事は過去最高部数を記録したが、女性として見過ごせないほどの低俗な内容だった。
そんな鈴木が手がける新しい企画。綾瀬が警戒するのも無理はなかった。
「なんだ。不服なのか」
「いいえ、やらせていただきます」
綾瀬は押し付けられた仕事を受けることにした。
むろん、わからないことは多い。裏もありそうな予感もする。
だが、まだ駆け出しの若干22歳の新人記者にとって大きな仕事であることは間違いない。
浮気現場を抑えるために徹夜をする仕事なんかより、よほど魅力的に思えた。